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土居豊&浦澄彬/小説とエッセイの部屋

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作家・土居豊と、評論家・浦澄彬の作品を掲載していきます。

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連載完結『村上春樹のまっとうな食事』その4

2009/06/12 23:36
『村上春樹のまっとうな食事』その4
土居豊

次に、最新作『偶然の旅人』をみてみよう。まるで『回転木馬のデッドヒート』を思わせる、ノンフィクション仕立ての聞き書き小説である。そこに、エピソードの語り手として登場するゲイの男性は、村上作品によく出てくる極めて洗練された趣味の持ち主である。その男性が、いつも本を読むために行く郊外型ショッピングモールの喫茶店で、一人の女性と出会う。くわしくは書かないでおくが、この二人のやりとりの中にも、「まともな食事」というテーマが現れてくるのである。男性は、ショッピングモールというものを趣味の面から好んでいない。しかし、そこに偶然見つけた、静かな居心地のいいカフェを気に入って、いつもそこで本を読む。そこで出会った女性と、まず最初はモールの中のレストランで食事するのだが、次に会うときは、もっとまともな食事、ということになる。
《この近くに悪くない、こぢんまりとしたフランス料理店があるんだけど、よかったらそこに行きませんか、と彼女は誘った。このモールの中にはあまりまともな店はないから。いいですよ、いきましょう、と彼は同意した。》(偶然の旅人)
 この二人は、いわば俗化された郊外型の消費世界において、たまたま巡り合った同じ世界観の男女ということになるのだが、二人に共通する世界観が、「まともな食事」という形で現れているのである。
 村上作品の中での食べ物は、登場人物の持つ世界観を象徴するものとして描かれることが多い。その世界観はあまりに単純に善悪、明暗、といった二面性を提示してしまうので、テーマとしてはいささか底の浅さを露呈しているかもしれないが、それゆえに万人にわかりやすいともいえる。そのとっつきやすさと、誰もが心に持っているはずの性善説に訴える物語の力が、混迷の二十一世紀を生きる人々に広く支持される理由となっているのである。たかが食べ物というなかれ。村上作品を読む世界中の読者は、食べ物の描写を楽しみながら、現代日本人の、性善説的でナイーブな感性を垣間見ているのである。
(了)

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連載『村上春樹のまっとうな食事』その3

2009/06/11 23:07
連載『村上春樹のまっとうな食事』その3
土居豊

 このことについての顕著な例を、最近作でみてみたい。まずは『アフターダーク』であるが、この実験的作品において、まるで読者に噛んで含めるように示しているテーマが、「ジャンクフードとまっとうな食事との対比」である。
そもそも、作品の舞台からして真夜中のファミリーレストランである。そこでヒロインの女の子は、一人の青年と再会する。その青年は、ジャンクフードの代名詞ともいうべきファミレスのメニューの中から、念入りにまともな食事を探し出していて、そのチキンサラダだけをいつも注文している。同じく、ジャンクフードそのものといえるコンビニの食べ物の中からも、成分無調整の牛乳とりんごを、まともな食事として注意深く探し出している。
《「どれだけかり(・・)かり(・・)にって念を押しても、トーストが注文通りに焼かれてきたためしがないんだ。よくわからないよな。日本人の勤勉さと、ハイテク文化と、デニーズ・チェーンの追求する市場原理をもってすれば、トーストをかりかりに焼くくらいそんなむずかしいことじゃないはずだ。そうだよね?なのになぜそれができないんだろう?トーストひとつ注文通りに焼けない文明にどんな価値があるんだろう?」》
《手を伸ばしてタカナシのローファット牛乳を取るが、ローファットであることに気づいて顔をしかめる。彼にとってそれはモラリティーの根幹に関わりかねない問題なのだ。》(アフターダーク)
この青年は、作品のなかで、明らかに人間のもつ善の部分、明の面を象徴しており、人間の悪、暗黒面を象徴する中年のコンピューター技師の男と鋭く対立するように描かれている。不気味なこの中年男性は、コンビニで青年とニアミスを演じ、牛乳の選び方において明快に対照的に描かれる。青年が、まっとうでない食品として退けたローファットミルクを、妻の注文であるとはいえ、いつもいつもその同じコンビニで買って帰るのである。それに対して、善の象徴たるこの青年は、作品のテーマのような言葉を口走りさえする。「ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」と。まるで、昨今流行のスローライフ、スローフードを推奨するような存在である。
もちろん、この作品は意図的に図式的な描き方をされている。しかし、食べ物の描写が、そして音楽もまた、作品のテーマを示す形で用いられていることに変わりはない。
(続く)
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連載『村上春樹のまっとうな食事』その2

2009/06/11 00:06

もう一つ、『ノルウェイの森』とほとんど同時期の作品『ダンス・ダンス・ダンス』をみてみたい。この長編は、初期の鼠三部作の続編であるにもかかわらず、『ノルウェイ』と同じくリアリズム小説として成立している。したがって、食べ物の描写にもテーマ性が明らかに感じとれる。特に、「ジャンクフードとまともな食事の対比」という視点は、その後の村上作品における人間の善悪の問題と深く関わっていくことになる。 
語り手の僕は、霊媒少女のユキと知り合い、不思議な運命をたどるのだが、彼女が食べているジャンクフードを、痛烈に批判するのである。
《「ちゃんと御飯は食べてる?」と僕は聞いてみた。「食べてるわよ。何だと思ってるのよ?食べなきゃ死んじゃうでしょ?」「ちゃんと(・・・・)した(・・)もの(・・)を食べてるかって訊いてるんだよ」ユキは咳払いした。「ケンタッキー・フライド・チキンやらマクドナルドやらデイリー・クイーンやらそういうの。あとはホカホカ弁当……」ジャンク・フード。「五時に迎えにいくよ」と僕は言った。「何かまともなものを食べに行こう。それは食生活としてはあまりにもあまりにもひどすぎる」》
《僕はまず彼女をまともな店に連れていって、ホール・ホイートのパンで作ったロースト・ビーフ・サンドイッチと、野菜のサラダを食べさせ、まっとうで新鮮なミルクを飲ませた。僕も同じものを食べ、コーヒーを飲んだ。美味いサンドイッチだった。ソースがさっぱりとして、肉が柔らかく、本物のホースラディッシュ・マスタードを使っている。味に勢いがある。こういうのを食事というのだ。》(ダンス・ダンス・ダンス)
 ここに出てくる「まともな」「まっとうな」食事という考え方は、たとえば人間の善悪のうち、明らかに善の面を象徴するような使われ方をしているのである。
(続く)
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連載『村上春樹のまっとうな食事』その2

2009/06/11 00:03

もう一つ、『ノルウェイの森』とほとんど同時期の作品『ダンス・ダンス・ダンス』をみてみたい。この長編は、初期の鼠三部作の続編であるにもかかわらず、『ノルウェイ』と同じくリアリズム小説として成立している。したがって、食べ物の描写にもテーマ性が明らかに感じとれる。特に、「ジャンクフードとまともな食事の対比」という視点は、その後の村上作品における人間の善悪の問題と深く関わっていくことになる。 
語り手の僕は、霊媒少女のユキと知り合い、不思議な運命をたどるのだが、彼女が食べているジャンクフードを、痛烈に批判するのである。
《「ちゃんと御飯は食べてる?」と僕は聞いてみた。「食べてるわよ。何だと思ってるのよ?食べなきゃ死んじゃうでしょ?」「ちゃんと(・・・・)した(・・)もの(・・)を食べてるかって訊いてるんだよ」ユキは咳払いした。「ケンタッキー・フライド・チキンやらマクドナルドやらデイリー・クイーンやらそういうの。あとはホカホカ弁当……」ジャンク・フード。「五時に迎えにいくよ」と僕は言った。「何かまともなものを食べに行こう。それは食生活としてはあまりにもあまりにもひどすぎる」》
《僕はまず彼女をまともな店に連れていって、ホール・ホイートのパンで作ったロースト・ビーフ・サンドイッチと、野菜のサラダを食べさせ、まっとうで新鮮なミルクを飲ませた。僕も同じものを食べ、コーヒーを飲んだ。美味いサンドイッチだった。ソースがさっぱりとして、肉が柔らかく、本物のホースラディッシュ・マスタードを使っている。味に勢いがある。こういうのを食事というのだ。》(ダンス・ダンス・ダンス)
 ここに出てくる「まともな」「まっとうな」食事という考え方は、たとえば人間の善悪のうち、明らかに善の面を象徴するような使われ方をしているのである。
(続く)
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評論連載『村上春樹のまっとうな食事』その1

2009/06/09 21:14
※この評論は、「関西文学」に2004年掲載されたものです。

『村上春樹のまっとうな食事』
土居豊

食べ物の巧みな描写が、村上春樹の小説における大きな特徴であることは言うまでもない。もう一つの特徴である音楽の引用とともに、それらなしでは村上作品は成り立たないとまで言い切れるほど、重要な要素である。
 しかし、初期の鼠三部作から、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』までにおいては、食べ物についての執拗ともいえる描写が記号性を表す効果は顕著であったが、それゆえに食べ物が作品のテーマに深く関わるとはいえなかった。つまり、音楽の引用についても同様だが、文体を構成する記号として食べ物や音楽の描写を考えた場合、「コカコーラをかけたホットケーキ」と「スタン・ゲッツのアドリブ」とは、等価であり、交換可能なレトリックである。その明確なポスト・モダンの方向性が、村上作品の評価を確立していったのである。
したがって、村上が初めて手がけたリアリズム小説である『ノルウェイの森』において、記号としてではなく、作品のテーマに関わる形で食べ物や音楽の描写が現れたとき、ようやくそれらは作品の重要な構成要素になったといえる。
もっともわかりやすい例でみてみたい。『ノルウェイの森』の二人のヒロイン、直子と緑の個性をはっきりとコインの裏表として描くため、食べ物の描写を次のように用いている。
まず直子は、語り手のワタナベと自分の部屋で何度か食事するが、それらは「簡単な雑煮」や「簡単な食事」としか書かれていない。
《正月のあいだ寮の食堂は閉まったので僕は彼女のアパートで食事をさせてもらった。二人で餅を焼いて、簡単な雑煮を作って食べた。》
《それでも用意した小さなロウソクを二十本立て、マッチで火をつけ、カーテンを閉めて電気を消すと、なんとか誕生日らしくなった。直子がワインを開けた。僕らはワインを飲み、少しケーキを食べ、簡単な食事をした。》(ノルウェイの森)
これらの描写に対して、緑は初めてワタナベと話したときからもう、「マッシュルーム・オムレツとグリーン・ピースのサラダ」だの「マカロニ・グラタン」だのについて話しているし、次に会ったときはもう、ワタナベを手の込んだ和食のお弁当を出す店に誘う。自分の部屋に呼んだときは、プロ並みの料理の腕前、それも本で覚えたと称する純関西風の味付けでワタナベを驚かせる。
《「おいしそうね、それ」「美味いよ。マッシュルーム・オムレツとグリーン・ピースのサラダ」「ふむ」と彼女は言った。「今度はそれにするわ。今日はもう別のを頼んじゃったから」「何を頼んだの?」「マカロニ・グラタン」「マカロニ・グラタンも悪くない」》
《緑の料理は僕の想像を遥かに越えて立派なものだった。鰺の酢のものに、ぼってりとしただしまき玉子、自分で作ったさわらの西京漬、なすの煮もの、じゅんさいの吸物、しめじの御飯、それにたくあんを細かくきざんで胡麻をまぶしたものがたっぷりとついていた。味つけはまったくの関西風の薄味だった。》(ノルウェイの森)
もちろん、このような意図的な描き分けは、死の世界に属する直子と、生の世界に属する緑、という図式を明確に表しているのである。こういう描写の用い方は、「死と性(生)」という作品のテーマを色濃く反映したものとなっている。その後の村上作品において、食べ物や音楽の描写に変わらずこだわり続けていることからも、これらは村上作品を構成する最重要の要素であるといえる。
(続く)
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『村上春樹を読む(4)〜ネットの中の読者たち〜』その5(連載完結)

2009/06/03 01:40
『村上春樹を読む(4)〜ネットの中の読者たち〜』その5
土居豊

世界中どこからでもアクセスできるというネットの性質を考えると、村上春樹がこのHPをあのような形で展開し、早々に閉じてしまったことは一見不思議である。もっと多くの人々を巻き込んで、個人のメディアとしては今までにない影響力を生むことも可能だったろう。現に村上龍はそうしようとしているし、猪瀬直樹もネットを通じて発言力を増していこうとしている。
むしろ、そうならなかったところに、村上春樹の作家としての資質をみることができるのである。
村上は、自分のサイトについてこう述べている。

≪たぶんこれが(すくなくともここしばらくのあいだ)最後の「村上ラヂオ」になると思います。一年半このホームページをずっとやってきて、僕もとても楽しかったです。僕はテレビとかラジオ(たぶん新聞なんかもそうですね)とかいった権威的な既成メディアにからめ取られたり、好き勝手に切り取られたりするのが嫌で、そういうところと関わるのをできるだけ避けて生きてきたのだけれど、インターネットというのは「自分で切り取ることのできる」メディアなので、とても自由に楽に行動することができました。これは僕にとっては大きな発見でした。
 たしかにインターネットはこれからの文化状況を突き崩していく可能性をもっているかもしれないですね。文体だって変わっていくだろうし、文体が変われば小説そのものがどんどん変わっていくはずです。これは基本的には、とても良いことだと僕は思います。変化があればこそ、そこに新しい可能性が生まれるわけですから。≫

≪メリットはあるかと言われると、よくわからないです。べつにメリットを考えて始めたわけじゃなくて、ただ単に好奇心で始めたことだから。でもやってみて、こんなにたくさんの人が僕の本をけっこう熱心に読んでいてくれたんだとつくづく実感することができました。それまではそういう意識ってほとんどなかったんです。本を書く人間って孤独なものなんです。たとえば本が何万部売れたと言われても、作者にとっては実感ってないんですよね。東京ドームに読者を集めてコンサートを開くわけじゃないから。でも実際に何万通という自分に寄せられたメールを読むと、そこにはなんか生身の感動みたいなものはありましたよ。体温が伝わって来るんですね。励まされるというか。≫

このように、村上春樹がネットというコミュニケーションの形をうまく利用して、自分の著作活動の幅を広げたことは確かである。と同時に、ここまでしか幅を広げなかったところに、村上の「小説家」としてのスタンスが感じとれる。むしろ90年代後半以降、近年のこの作家は、広げていた活動を縮小して、小説作品の完成に集中しているようである。つまり、この作家は、あくまでも一人の小説家として小説を書いていくことを優先しており、その必要があれば、いくら巨大な影響力を発揮する可能性があっても、その立場を、その手段をあっさりと放棄するということである。
たとえば、もし村上がその気なら、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロに関して、またその後のアフガン戦争に対して、ネットを通じて大きなオピニオンを形成し、アメリカ政府に対して何らかの発言をすることもできたはずである。村上龍も池澤夏樹も、同時多発テロに対してネットを通じてコミットした。村上春樹は、そうできたのに、しなかった。この違いは大きい。
つまり、90年代を通じて、村上が社会にコミットしようと行動し、作品にも反映させてきたその姿勢は、ここにきて、大きく後退したということである。後退というより、本来のスタンスに戻ったというべきか。
村上春樹にとっては、ネットを通じて世界に政治的働きかけをするよりも、一小説家として作品で何事かを社会に問うことの方が優先されるということである。このことは、村上の読者にとっては喜ぶべきではなかろうか。いくら作家がメールで返事をくれるとしても、また、そのサイトが世界に政治的影響力を持ったとしても、その作家がろくな小説を書かなくなってしまったら、読者としては寂しい限りである。
村上春樹は、ネット上の読者にサービスをしたが、書店で本を買うだけの読者のことも、ちゃんと忘れないでいたのである。

≪11月11日11時以降も、引き続きいくらか内容の更新はありますが、それ以降に寄せられたメールのお返事を書くことはできません(でもメールを送りたい人は送って下さい。読みますが、返事は送れない、ということです)。申し訳ありませんが、よろしくご了承ください。≫

村上春樹は、最初の長編『羊をめぐる冒険』を書いて以来、自分が長編を書くときのペースを守ってやってきた。今も、それは変わっていない。いかに作家としての活動をグローバルに拡大する可能性があろうとも、自分は小説家であり、小説を完成させることが使命である、と信念を抱いて書いている。たとえ、どんなに多くの世界中の人と意見を交わし、自分の発言をリアルタイムでグローバルに発信できるとしても、一つのすぐれた小説のもつインパクトには劣ると考えているのだろう。政治的発言に走らず、作品世界を深く掘り下げることで真実を追究するその姿勢を、読者として支持したいものである。
(完)



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『村上春樹を読む(4)〜ネットの中の読者たち〜』その4

2009/06/02 01:20
『村上春樹を読む(4)〜ネットの中の読者たち〜』その4
土居豊

一方、このサイトが、多くの読者にとってはまだ手の届きにくい形で存在していたことも事実である。これは、たまたまパソコンを持っていて、しかも村上春樹の熱心な読者であるごく限られた人々と、作家との秘密の交流会だったのである。例えば、こうである。

≪去年の夏にREMの「モンスター・ツァー」のTシャツを着てお茶の水を歩いていたのは村上かという問い合わせをいただきました。そうです、それはびったり僕です。たしかに僕はそのシャツを持っています。REM大好きです。お茶の水を歩いた記憶はとくにないけど、歩かなかったという確信もありません。ときどき行くから。しかしただの日焼けしたおっさんで悪かったよな。≫

東京に住んでいたら、たまたま町で村上春樹を見かけることはあるだろう。でも、だからといって、村上に電話して、「どこそこにいましたよね?」などと確認はできない。ところが、もしパソコンを持っていて、メールを出せば、このように返事がもらえるのである。

≪白犬ウィロウ「わんわん。楽しいお知らせですよ。前々からやろうと思っていた春樹さんの本のプレゼントです。サイン入りの『レキシントンの幽霊』(文芸春秋刊)を全部で30冊どっと差し上げます。これは整理の都合上、Eメールではなく、郵政省システムをつかったはがきで申し込んでください。宛先は「ぱそ」編集部内丁稚/編集長、五十嵐文生あてです(丁稚注:住所は〒104−11東京都中央区築地5−3−2朝日新聞社「ぱそ」編集部です。裏に「村上春樹サイン入り本希望」と書いて、自分の住所も忘れずに)。それから発送は、費用のかんけいで日本国内に限らせていただきます。締め切りは3月20日(消印有効)となっております。春樹さんはサイン会をまずやらない人ですので、どうぞこのチャンスをお見のがしなく。わんわんわん」≫

これは、HPの管理者として作業を行っている担当者が、読者へのお知らせをしているのである。ここまでくると、もうまるっきり仲間内のふざけである。このサイトにアクセスできるかどうか、いや、実際にアクセスしたかどうかによって、村上春樹の仲間としての扱いを受けるというわけである。確かに、村上春樹のサイン会のお知らせがマスメディアに出ることはまず無かった。ところが、このHPにアクセスすることでファンサービスの特権を享受できるということなのである。
また、このサイトは、もちろん世界中どこからでもアクセスできる。したがって、日本にいない読者でも、どこかほかの国の読者でも、このサイトにアクセスしさえすれば、特権が得られるということでもある。そういう意味で、このHPは、秘密クラブ的な働きをしているのである。
(続く)



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